予算統制をかじったことがある人の戯言として
企業はなぜ、会計不正に手を染めたのか―「会計不正調査報告書」を読む
- 作者:米澤勝
- 出版社/メーカー:清文社
- 発売日: 2014/09/30
- メディア:単行本
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会計周りの操作のあたりは、そっち方面詳しい人が語ってくれる(詳しくなくてもある程度わかる)のでココでは語りませんが、会計での不正に手を染めた時点で、待っているのは地獄のみですね。
北斗琉拳の究極地「魔界」に踏み込むようなものです。(ここでなぜか北斗の拳)
今回の不正会計もとい粉飾決算事件によって、「チャレンジ」という言葉は、魔界に踏み込むきっかけを与えかねない言葉として広く認知されることとなりました。
別に何も新しいことではなくて、昔から多かれ少なかれ、あらゆる組織で経験してきている話です。特にわかりやすいのが、営業職のイメージを貶める筆頭格として上がられている「ノルマ」の話であって、何十年と続いている「ノルマ必達!契約取れるまで帰ってくるなvsそもそもできるわけのないノルマ設定がおかしい」のアレです。
ただし、営業現場のノルマ設定のイメージの裏にある、「脳筋バリバリ体育会系営業部の上下間の会話」よりもうちょっと高度な話で、上場企業の実績&予測数値として開示され、投資家の判断材料の一部となる数字を算出する経緯の話です。
妥当な数字を算出するのだって相当なストレスにさらされるわけですから、そこにチャレンジなどというさらなる圧力が加わったら正常な精神を保てない状況になることも無理もない。現場の人を攻めようなどとは、まるで思えないわけです。
ましてや、今回の事件は予算だけではなく「実績」という動かしがたい数字にまで「そんな数字の報告受け取れねえ」といったとか言わないとか。もう事実をねじ曲げろって言っているのと同じですので、自覚があるとかないとかいう問題じゃないです。自覚が無ければ無能、自覚があれば恣意的犯罪、どっちに転んでもアウト。
なんでそんなことになってしまうのか、を考えてみたわけですが、おおよそ予算統制とか数値目標の管理、わかりやすく言うところの「ノルマ」設定とその実績管理について、以下の情報が圧倒的に不足しているんじゃないか、と。
- なぜその数字へのチャレンジが必要なのか
- チャレンジの結果、成功したときの見返りがあるのか
- チャレンジの結果、失敗した時の影響と責任の取り方はどうなるのか
会社の外に見える資料、そこに載せる数字に責任を持つのは経営者であり、その算出方法に責任をもつのが経営者ですが、どこかでその責任を果たしていなかったことから生み出された歪みが膨らんだ結果、不祥事として爆発するものと見ています。
なぜその数字へのチャレンジが必要なのか
「ケイツネXX億、かっこいいじゃん」とか、気心知れた仲間内での雑談ならまだしも、業務命令で出てくるのは論外なわけで。
単年度予算におけるチャレンジ要求の説明として「中期経営計画の達成に向けて今年はこれだけ必要」ってのがベタなところなんだけど、その中期経営計画の数字がなぜそうなったかすら具体的に示されていなかったりします。
大体、上がってくる数字には論理的な説明が必須であるのに、下ろしてくる目標値に論理的な説明が不要でいいはずがないのですが、上下関係の悲しさゆえ、これが許されてしまいます。
そして、指示を受けた側は必死にその「指示された目標値」に向けて予算を組み上げていきます。
しかし、「約束は破るためのもの」なんていうマンガの悪役キャラのようなヒャッハーな感じの人が予算策定に絡むポジションにいるはずもないわけで、「基本的に真面目で、約束を破ることに罪悪感を持つ道徳心を持った人」は、「最大限の努力の結果としての、現実的に約束を守れる数字」を出してきます。
そうして、経営陣との会議というバトルシーンに突入するわけです。
経営陣が期待している予算数字が上がってこなかった場合、「そんな数字は受け取れん」じゃなくて、「なんでそういう数字が上がってきたか」を考えなきゃいかんでしょ。
時間をかけて考えさせれば積み上げられる確信のあるネタを持っているのであれば、突き返して考えさせるのはあり。
また逆に、できもしない、裏付けの貧弱な数字を上げてきた場合に、これを戒めるのもまた経営者の責任。
それをするためには、そもそも経営陣自身が指示した目標数字自体に論理的な裏付けがないと評価のしようがないわけです。
しかし、拠り所となる元の数字の論理的裏付けが「ない」から、表面的な数字の大小でしか語れないし、ダメ出しを受ける側も、何がダメなのか、何を求められているのか、会社としてドコに向かおうとしているのかが見えず、袋小路に向かっていき、暴発に向かうのです。
チャレンジの結果、成功したときの見返りがあるのか
チャレンジングな数値目標を設定して、違法な手段に手を染めること無く、知力と体力を尽くした努力の上に達成を成し遂げた時、どうなるの?ってのが明確になってないです。
これは人事評価と報酬体系制度の問題とも絡んでくるんですが、多くの会社において、チャレンジに対する報酬が示せない。
はっきり言って、プラスアルファの何かが期待できるような雰囲気が全然無いですね。
「やればできんじゃねーか」「やって当然だろ」「これで首の皮がつながったな」くらいの、なんとも後ろ向きなレベルの報酬です。
もう、「恐怖による統治」の世界以外の何者でもありません。
「あの村の長をヤったやつに、村1つまるごとくれてやる」の方が余程マシに見えるっていう。
会社の成長の貢献した、とかいう実感はかろうじて得られるかもしれない。
あくまで個人の内面の問題として。
そして、会社の成長に貢献した結果、何が残るんだっけ、とか考えないようにしていれば乗り切れるかもしれない。
そんな状況に耐えて耐えぬいて、上司が異動するか昇格するか降格するか退職するかしてぽっかりポストが開いた時に、覚えめでたくお眼鏡に叶えば昇格し、さらなる修羅の道に踏み込むという、そんな世界。
「仕事の報酬は仕事」とかいう考え方もあるけど、それってある程度「裁量が与えられてる」か「失敗を許容する」会社にのみ許される言葉だよねー。
チャレンジの結果、失敗した時の影響と責任の取り方はどうなるのか
脅迫まがいに無茶苦茶な約束をさせられ「約束しただろ」といって責められるのはいつも部下側。
予算を組む段階で「この数字のうちx円分は、実現可能性が数%の著しく低いレベルのものも乗っけています。求められてる数字を見せるには、そういうものも含めざるをえないです」と幾らエクスキューズ打っても、結果を評価する段階では考慮されないし、そんなことに配慮できるような人物なら最初から無理な数字の要求はしてこないって。
そんな状況で誰が「本来の意味で」前向きにチャレンジするっていうの。
そして北斗の拳
この話、書けば書くほど、あの「力こそがすべて」というあの世界の光景が頭のなかに浮かび上がってくる。
伝説の救世主がやってくることを信じてひたすら耐え、ちょっとしたきっかけでバッサバッサと理不尽に切り捨てられる一般人民。。。
今回の件だって、結局立て直すために色々と切り捨てたり、切り売ったりすることになるでしょう。
会計上の不正に対処する為のお金はワリとすぐに捻出できそうな気配にはなっているけど、「そもそも、そんなにいい数字を出せる事業じゃない」っていう、暴かれた事実自体は何も変わらないんだから、そっちに手をつけることは不可避なわけで、そこで泣くのは末端っていういつもの構図。
つーか、最近読み返したマンガに影響されすぎだろ。
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